2012年8月29日の活動

被災地視察。

 校門が墓標になっている。訪れる人が絶えない。

 
津波前の大川小学校と街並み


体育館のステージ側から見た大川小学校

 

 宮城県石巻市(死者3735人)で、児童108人中74人が亡くなり、教員12人中10人が亡くなった大川小学校へ。現地の方からお話を伺いました。
 現場に立って考えさせられたのは、果たして私が先生だったら、子供を逃がす事が出来たのか。
 後から批判をするだけなら簡単だが、今回の震災に限らず、何か大きな事が起きた時に、自分が適切な判断を下せるにはどうすればいいか、自問自答した。

 

体育館の先に、山に上がるケモノ道がある。
私だったら、上がる決断は出来たのか?
恐らく津波が見えてから、
ここをかけ上がろうとしたのではないか。


 もし津波から逃れようと、山に登ろうとして、土砂崩れが起き、津波が来なかったら。
 絶対の正解が無く、どちらを選択してもリスクが伴う中で。

 

南三陸町の仮設住宅

 

 南三陸町(死者845人。町民の4.85%)の戸倉中学校の仮設住宅の責任者でNPOみらい南三陸の役員をされている方を、以前被災地で知り合いになったNPOの方から紹介して頂き、お話を伺いました(以下、説明)。

 
津波が到達した時刻で時計が止まっている中学校。1階は津波でガラスが割れて、板をはっている

 (この中学校は、私から見て恐らく海抜30mくらいの高台にあるのですが)津波が内陸部まで押し寄せた後、渦を巻いて、後ろから津波が押し寄せた。

 
南三陸町 防災庁舎。震災の象徴的な建物として訪れる人も多い。

  南三陸町では、防災無線で避難を呼びかけて亡くなった町職員だけが注目されているが、ここでは、1人の先生が中学生を助けようとして、2人の生徒までは助けられたが、もう1人を助けようとして、亡くなった。殉職だと思う。


南三陸町。草がはえている所に、家々があった
写真右端の建物が防災庁舎。

 
(震災当時の話からさかのぼって詳しくお聞きしました)
 津波の高さ予想は、当初6mと発表され、その後10mと言われ、防波堤で何とかなると思った。「10m以上」と言われていれば、警戒心が強まり、家に残る人はいない。今回亡くなった2/3は助かったのではないか。
 津波の高さ予想をピタッと当てようとしてはダメ。大げさに言ったほうがいい。
 チリ地震の時、津波は水が増えた感じだった。今回の水の引きはチリ地震の半分くらい。チリ地震を経験した人は比較的海沿いに暮らしていたが、そこより奥に住んでいたチリ地震を経験していない人のほうが多く亡くなった。
 学校が避難場所になっているからと言って、安全だと思ってはいけない。(大川小学校を例に伺ったところ)より安全な所に逃がそうとして、やられてしまった責任は問われないようにすればいい。
 津波から逃れる為に、電柱に上がって、下りられなくなったおばあちゃんがいた事から考えても、厳しい山でも上がれる。
 この仮設住宅には67世帯150人がおり、子供は15,6人。
 高台移転の話は机上の議論で、全く前に進んでいない。公有地に移転する場合、抽選になり、これまで同じ集落だった人がバラバラになる。
 南三陸町は人口規模からして、復興のモデル地区になれる。
 楽天が1億円寄付。
 寄付の課題は、市町村に寄付すると、分配が平等なので、全部に配れる数が集まらないと、ずっと置いたままになる。
 南三陸町の被災者は登米市で半年間、避難所生活をした。登米市自体は被災地ではないから、ボランティアが来なかったので、ボランティアを自分達で探した(四・五百人)。9月22日に登米市でお礼のコンサートを行う。
 auから高齢者の緊急ブザーの貸し出しの話が来ている(以上、説明)。
 仮設住宅の高齢者の方々と少しの時間お話しました。

花巻市で友人の岩手県議会議員に被災地の現状などについて話を聞きました。