市民要望対応。
市PTA連合会。
市内ボランティアのお宅訪問。
――――――――
【もしもここに来ていなかったら、私の人生は】
阪神淡路大震災から、20年。もしもここに20年前、来ていなかったら、今の私は存在しません。きっぱり言い切れます。阪神大震災が私の原点です。震災の時にお世話になった所を先日回って来ました。今日1月17日、市のPTA連合会新年会があって私から話をさせて頂く時間を頂戴したので、短く以下のように話しました。
「私は20年前の今日まで、議員になろうとは思っていませんでした。
20年前私は病院で看護助手をやっていました。しかし、学生時代自転車で日本一周した時見たあの神戸が、ゴジラに襲われたようになり、居てもたってもいられず、お手伝いに伺いました。
何が申し上げたいかと言うと、狭山の出来るだけ多くの子供達が、(TVやパソコンを見て、知ったようなフリをするのではなく)自分は、何々をやってみたい、どこどこに行きたいと思えるように、今年も皆さんのお力をお借りしたいと思います」。
神戸の中心、三宮。そごうも地震の被害に遭いました。震災前の面影も残しながら、復興しています。
阪神大震災の時、ここに灘区災害ボランティアセンターがあり、私はリーダーの1人でした。
現在とは違って、当時区役所は『ボランティア』というものの存在を認知せず、1日毎に新たに全国から3千人以上のボランティアの方々がお見えになるのに、どう考えても被災者の方は困っているのに、区役所に寄せられる住民の声がボランティアセンターには届けられず(区役所は「出来ない」と断るのみでした)、ボランティアの方に何も役割をお願い出来ず、何もしないまま帰って頂かざるを得ない状況が続きました。そこで私を中心に、区長に直談判。翌日以降は、区役所に届く住民の要望でも、ボランティアが活動出来るようになりました。これが結果として、私の初めての政治活動となりました。
またボランティアセンターにはテントはあるものの、運営する為の機器(FAX・コピーなど)など何もなく、企業に支援をお願いして回りました。
“ボランティア元年”とマスコミでは報道されましたが、現場はそんな悠長な状態ではありませんでした。
朝から夜遅くまで灘区役所の災害ボランティアセンター
この避難所は地域のサッカーチームの役員がトップと
避難所の方が口々に言われていたのは、「役所の職員は
まして神戸市は、市民が「自分は神戸市民だ」という
被災地は芦屋から先は電車が通じておらず、自転車を
夜は体育館のストーブを被災者の方と囲んで、遅くまで
神戸に着いてから10日目にして、カップラーメンを頂
今は遠い昔の思い出です。
震災では、手前の建物の6階部分が完全に
私は灘区災害ボランティアセンターのリーダーとして
当時の写真 阪神大震災 市役所写真
写真の渡り廊下は、震災前、上にもう1つありましたが
左側の建物の黒い部分、2本線がつなぎ目の面影です。
当時の写真 阪神大震災 市役所写真
川嶋あい -しあわせ運べるように-
亡くなった方々の分も
毎日を大切に生きていこう
幸せ運べるように