2015年11月17日の活動

さいたま市青少年育成地域の集い。

埼玉県・南浦和の高校出身の元 東洋太平洋チャンピオン、坂本博之氏講演(さいたま市)。

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 乳児院に1年半預けられた後、知人宅に預けられた際、学校のパンを家で隠れて食べた。川で取れたドジョウも食べた。公園に連れ出され、石を並べられて「石の上に正座しろ」と、すねから血が出てもやめなかった。近所の人が警察を呼ぶと「お前達のせいで警察に怒られただろうが」とまた殴られる。弟は栄養失調で通学途中に倒れるが、家に戻ったら殴られるので、学校へ行った。自分自身も拒食症になる。給食すら受け入れられず、もどす。
 児童養護施設に入ると、水も飲み放題。笑顔をだんだん取り戻した。ボクシングジムに通う金が無いので、本屋でボクシングの本をメモって、石を袋に詰めて筋トレをした。母親が知人宅に行ったら自分達がいない事を知り施設に引き取りに来た時、初めて母親の涙を見た「ごめんね」
 デビュー戦で拍手を頂き、心地よく安心できた。
 小学校時代、児童養護施設で見たTVでボクサーになる事を夢見て、もうここには戻りたくないと思っていたが、施設が気になり敷地内に入ると子供ににらまれるが、自分もここにいたと話すと寄って来た。
 10ヶ月後、子供達は憶えていた。日本チャンピオンだったが、「このベルトを世界に変えたい。その為には、お前達の応援が必要だ」。必ず世界チャンピオンになりますと短冊に書いた。子供達とそれから文通をするように、ふれあうようになる。20戦目で初めて敗戦した時の手紙「1敗ぐらいなんだ。あきらめるな。兄ちゃん言ったじゃないか。『1歩でなく、すり足でもいいから前に行け』って」。
 97年、世界戦。23年ぶりガッツ石松さん以来の日本人挑戦。子供達が応援に来てくれて、大歓声の中でも子供達の声は聞こえる。負けたが、子供達が来て女の子が白いハンカチを出し、血の付いた目に「私のパワーで治してあげるから」。
 3度目の世界戦。福岡から子供達が両国に応援に。挑戦後、目の周りがはれてサングラスをかけてないと目のやり場に困ると思い、サングラスをかけた。子供達が、目に手をあてて治そうとするが、痛い。
 畠山戦。初めてのKO負け。試合の記憶が無かった。判定で負けたのか、レフリーストップで負けたのか。ビデオを見て、KO負けを知る。翌日の新聞に引退と書かれたが、その日ランニング。「兄ちゃん、まだやるんだろ」と。何としても勝ち、施設にベルトをと。椎間板ヘルニアで走るのも痛い。3度のレーザー手術と外科手術したが、打たれても前に出る姿勢が出せなくなって、7年前に引退。

 「ボクシングをやる前、信用できるのは、弟だけだった。
 全国の児童養護施設へ。一昨日も北海道、その前は山口県に行ったが『10割が虐待』と言われた。
 夢に近づくには、根性。根性は根っこと書く。大きな木を支えているのは、見えない根っこ。ジム練習は見られているが、見られていない朝5時からのランニングで、試合の時根性があるか見られる。窮地に追い込まれた時、根っこが困っている自分を助けてくれる。
 私が開設したボクシングジム初のプロ選手は、施設出身の錨吉人(いかり よしと)。あんなの親じゃねえと言っていたが、26才になって、母親に会いたいと言った。
 何気ない挨拶をしてくれる近所の人。
 サングラスで来た私に、ありのままでいいと言ってくれた施設の園長。このままでは園長に迷惑をかけると思って、サングラスをやめた。
 援助交際の女子に『源泉徴収票を、もらえないだろ。県や市の役に立っていないって事だ』。すぐには治らない。『つらい時にこそ、前に出ろ』何度も何度も強く言い続けた。『その先には、笑顔しかない』と。子供に対して、言うのは簡単。上から物を言われ続けるのは、つらい。その子は変われると、待つ愛情。
 情動調律。子供の波長に合わせて、波に入っていく事を言う。
 100円玉の100と書いてあるのが表。裏が影。影は消えない。
 タイガーマスク、伊達直人。食べ物が置いてあっても、どんな思いで置いたのか分からない物は、子供の胃には入らない。
 虐待の連鎖を止めて行く。毎日毎日『疲れた、疲れた』と帰って子供に言ったら、夢が無くなる。『早く大人になって、仕事したい』と思えるよう。私のような経験をしていない皆さんにも出来る。
 明日からでなく、この瞬間から。
 最後に。熱を持って、接すれば、熱を持って返って来る」。
(講演で上映されたTV映像で、「坂本にとって施設の子は、弟や妹」とあり、私達は、地域の子供に、そのように接するだろうかと思いました)
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県庁。
(終電で帰宅)