航空自衛隊、那覇基地で基地司令(写真)と意見交換させて頂きました。
基地の8割は借地。嘉手納基地は、那覇基地の11倍の面積で、その他に弾薬庫がある。
「中国の空母が先日、初めて東シナ海から太平洋へ通った」。
写真の地図は、南北が逆になっています。
Fー15の機体の大きさは、テニスコート1面や2LDK(57㎡)と同じ。(コクピットの高さから撮影)
(ブルーインパルスと同型で、入間基地にもある)T-4と比べて改めて見ると、デカさに驚きます。
F15の機銃。
「自衛隊になって1度だけ、領空侵犯機に威嚇射撃をした事がある。
しかし、今の戦闘はミサイルなので、これが届く範囲の時には戦闘は終わっている」。
映画『トップガン』のようなドッグファイトは昔の話か。
F15のミサイルを付ける所。
写真左のUFOキャッチャーのような留め金の所1か所と、燃料タンクの上に、カーテンレールのようになっている所2か所。
F15が滑走路で止まり切れなかった時に、ロープに引っ掛けて機体を止める為のフック。
(写真中央。空母の艦載機のフックとは別)
両側の黒いのはバーナー(噴射口)。触らせて頂いたが、とても薄い。
Tー4を後ろから見たところ。
なんか新鮮。スタイルがきれい。
翼の下に付いているのは、燃料タンクです。
戦争中に使っていた砲台(那覇基地内)。
現存する砲台はこれ1つ。砲弾を撃つと砂ぼこりが上がるので、そこを米軍に集中砲火された。
この砲台は軍艦から6つ、陸に上げて使われた。
砲台のトーチカの中に入らせて頂きました。
痛みが71年の歳月を感じました。
これを設置する時、自分は間もなく死ぬと思ったでしょう。
基地内には、塩が盛られた所があります。
月刊「おきなわ」 平成28年5月26日発行
「この陣地の工事には、小学3,4年生も作業した」と書かれています。
【辺野古】の中心部に掲げられた横断幕。
「辺野古・普天間の苦しみは、全国の苦しみと知るべし」などと書かれている。(写真を拡大してお読み頂ければ)
皆さんの生活しているエリアで「いい加減にしろ!」と書かれた物が常時貼られているでしょうか?そう書かざるを得ない気持ちが、今回、より分かりました。
(辺野古)米軍キャンプ シュワブ・ゲート前の旗『脱植民地』。
その通りだと思う。沖縄だけではないが、特に沖縄はひど過ぎる。
【辺野古新基地建設ゲート前】で、演説を頼まれ、
県議として基地負担軽減の取り組みについて話しました。
辺野古新基地建設ゲート前で、座り込みをしていた人をかかえて、ゲート脇に移動させる機動隊員。
私がいた時には逮捕者などのトラブルはありませんでしたが、反対団体の代表者は4か月、拘置所に収容されたままだ。この事が、どれだけ沖縄以外で報道されているだろうか。
私達の身近に何か大きな問題が起き、市民として他に方法が無く、機動隊員の前に立ちふさがる事が出来るでしょうか?
沖縄県は、悪い事をしてないのに。
沖縄県民以外が、放っておいていいわけがない。
沖縄戦の司令官の遺言「沖縄県民かく戦えり県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」を、日本政府や国会議員・官僚は知らないのでは?
太田実-Wikipedia
辺野古の海。
生き物が豊かなのを、少し居ただけで感じる。
(写真は、潮を満ちていく時)
宮﨑駿さん・菅原文太さんの奥さんも、辺野古新基地反対を応援。
フィギュアスケート 羽生結弦選手の言葉だそうです。
沖縄の事だけでなく、日頃の生活で感じるものがありますね。
辺野古『座り込み用駐車場』(^^
駐車場が用意されています。
那覇から辺野古に来て、右側に見える黄色い旗が目印。(看板は裏側なので、通りからパッと見えません)
「自分の住む地域の事は、政府でなく、自分達で決めるのが自治」
その自治の権限が弱い・足らないから強化すべきと思っている沖縄県民は、35%。
埼玉県民にどれだけその意識があるでしょうと思わされました。(そもそも県庁や県議は、そう思っているか)
「現行通り、日本の一地域(県)のまま」と答えた人が前回から15.7ポイント減って半数を割り、46.1%となった。
「気になる問題」の2番目が「基地問題」が46%。こんな県、他に無い。
たとえば辺野古の新基地が完成しても、このままでは、ずっと2番目なのではないか。
その自覚が、政府には無い。
朝日新聞の局長さんが見せて下さった資料は、
『自治権強化35%望む 「現行通り」半数割る』琉球新報県民意識調査
夕方4時過ぎから沖縄最大の書店(ジュンク堂那覇店)で資料調査。10時まで。
沖縄でないと、沖縄の本はこれほど見られない。
その後、沖縄在住の若い方に、在日米軍について、沖縄県民が感じている事などについてお話を伺い、意見交換させて頂きました。
「戦後にあった事件について祖母から聴いた事が、むご過ぎた」との話が一番印象的でした。確かに、沖縄が米軍統治下から日本に復帰する(1972年)までの事など戦後の事を私達は知らないと思いました。
この方は基地反対の活動をやってはおりませんが、逆にそうだからこそ、一般的な沖縄県民の感覚が垣間見られ、翌日の調査・意見交換に大変役立ちました。感謝。
(1時にホテルに戻る)