2016年11月24日の活動

市民相談。
障害者施設代表の方と意見交換。
高校生と意見交換。
市民意見交換。
県庁。
決算担当県議と意見交換。空き家対策・農業新規参入。
狭山に戻り、

狭山歴史講座『新田義貞 鎌倉攻めの道』(講師:広沢健一氏)。

2017-04-12_09h56_22

 1333年5月17日、分倍河原での合戦に敗れ、狭山・堀兼に退く。
歴史上「1万の大軍」と言ったら大体2千人。たいていウソ。鎌倉に80万人の軍が来たと言うが。
東村山『八国山』に3万人、入れる訳がなく、3千人くらい。
大館氏は戦の後、所沢に行った一族。
民家は焼かない・女子供は殺さない風習だったが、新田は容赦しなかった。
 旗揚げから15日で鎌倉幕府滅亡。
 1335年、足利尊氏に敗れ、帰京。
 1336年、後醍醐天皇の南軍を、越前に行って集めようとした。
 1338年、藤島で敗死。義貞は後醍醐天皇の関東の純朴な武将だった。明治時代に藤島神宮が出来る。
義貞の息子達がまた武蔵・狭山に関わる。首が足利氏の陣のあった狭山に持って来られた。八幡神社は北向きに建てられている事から一時、『新田八幡』と呼ばれた。しかし、宮司が北に住んでいたからではないか。

〔太平記十巻〕(訳)
・『稲村崎成干潟附島津四郎降参事』
 新田義貞は準備万端整い、ここで敗れても仕方ないと思った。後醍醐天皇を救う為に、龍神様、水を割いて下さい。(解説:干潮を利用して鎌倉に攻め込んだのは間違いない。でないと入れない)北条方は、前後をはさまれた。新田軍が鎌倉に入ったので、戦意を失い、迷ってしまった。
・『鎌倉兵火長崎…』
 海岸線と稲生川の両方から火を放ち、浜風で燃え広がった。猛火の中を義貞が乱入。地獄の火もこれ程ではないと思われた。いよいよ北条方の屋敷に火が迫り、菩提寺で死ぬより他ないと、東勝寺に逃げ込む。
・『高時一門以下於東勝寺…』(北条の末路)
 (死ぬ時の当時の作法で、身を清める為に酒を飲む)高時を自害させる為、家来がまず腹を切って見せる。鎧を脱ぎ捨て、腹を切り、腸を取り出し、前に置いた。相模入道も同じ事をやった。頭をかき落とす人もあり、このようにして自殺して行った。北条一族の最後となる寺の裏山
・『忠時佐々目大僧正有…』
 東勝寺の庭。火に飛び込む者あり、兄弟で切りあう者、血は流れ、河のようになる。死体は道路に並び、重なる。寺で死んだのは874人。1333年5月22日、この事により、鎌倉幕府は倒れる。(解説:北条家は優秀。政子の系統)しかし9代目くらいになると(酒飲み、役者遊び、女好きになり)源氏が蘇る。

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かぐや姫の物語は、モンゴルにもインドにもある。
ウバ捨て山伝説は、青森から鹿児島にある。おじいさん・おばあさんを捨ててない。当時、平均寿命は40才。インドのお経の話。

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県議だった鈴木義弘衆議院議員(浅草)。
森本 元防衛大臣講演「防衛費がGDP2%以上の国は5カ国しかない。日本は防衛費の増額をせがまれるかも」。
上田知事と意見交換。
県内市長と意見交換。
民間事業者と意見交換。
(0時前に帰宅)