2018年5月30日の活動

 

『広沢謙一先生の思い出』展(31日まで)中央公民館3階
 私が28才で市議会議員選挙に初挑戦した時、後援会長を引き受けて下さるなど、子供の頃から亡き母ともどもお世話になり、広沢先生がいなければ、今の私は存在しません。
 85才で亡くなりました。こんなすごい方と近しくさせて頂き、私は、ぜい沢なのだなと思いました。

 

『広沢謙一先生の思い出』展
 中央公民館3階に展示されている『文集 狭山台 1号』に、私の亡き母も寄稿しているとお仲間の方から教えて頂き、読みました。今から32年前。母は当時48才。今の私より若い。
 死んだ人が、自分より若い時に書いた文って、不思議な感じですね。特に、その年令を過ぎてから、初めて読むと。
 本人と何も話せないから、複雑な心境です(^^)。

 

 

狭山市が『発祥の地』の【童句】とは、子供の感覚(童心)で考える俳句
 絵本『かわいそうなゾウ』を書いた土屋由岐雄先生が創始者で、広沢謙一先生が一緒に全国に広め、読売新聞に連載されていました。
 狭山・智光山の『こども動物園』入口には、ゾウの形をした石に童句が書かれ、ひろし事務所のある商店街の街路灯1本1本に童句が掲示されています。
 お2人の先生がこの世からいなくなって、『童句』を狭山市でどう発展されていくかが、問われていますね。

『七五三 子は紋付に 母茶髪』が笑えます。↓

『ブランコで 夕日蹴り上げ まだ遊ぶ』。うまい↓

童句の季語(一例)
(広沢謙一先生は、土屋由岐雄先生から『岐』の字をもらって、文化人として、広沢一岐と名乗っていました。元市議会議員で、分野に精通している事も、とても励みになります)

 

『偲ぶ会』
 死・衰えを多くの人は恐れていますし、死は特別な事ではなく、死から学ぶ生(死生学)が大事だと思います。私の親が亡くなった時代は、『偲ぶ会』を行うのは、著名人くらいだと思います。私は葬儀の時、参列下さった方に ただ頭を下げるだけで、参列の方とお話出来ず、ふさぎ込みました。(たまたま私の場合は)後になってお世話になった方がお声がけ下さり、世間から見た親の状況を知る事が出来ました。好みではありますが、私は葬儀は近親者で行い、偲ぶ会を行ったほうが、家族も・参列者も・本人も『救われる』のではないかと思います。先入観で、しめっぽく・儀礼的にした所で、本人は帰って来ませんし、家族は、ふさぎ込んでしまうかも知れません。参列者も悲しいし、参列者同士で話して、新たな発見・学びがあるかも知れません。
 ”広沢謙一先生を偲ぶ会”では、大変お世話になった方なので、参列の方に、広沢先生とのエピソードを出来るだけ伺いました(終わるまで自席には座らず)。
 『えにし』を大事にしていきます。

 

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<30日の行動>
教職員と意見交換。
心臓移植患者家族の方と意見交換。
事務所。
県障害者支援課長。
県高齢者福祉課長。
 福祉施設(介護・障害など)は、人材不足なので、有料人材紹介会社からの紹介での新規採用で、高額な手数料を取られている事に対する県庁の認識を私から聞き、総合的な対策を求める。
 県庁はよく「国のせい」だけにしたがるが、それでは都道府県は、いらなくなります。
障害者施設職員の方に伺う。
県議と意見交換。
(8時に帰宅)