2019年1月17日の活動

 

【阪神大震災】の現地での私の📷写真です①
 私は当時、東京女子医大病院の看護助手でしたが、半月間、神戸市灘区役所での災害ボランティアセンターのリーダーの1人を担わせて頂きました。
 阪神大震災のこの年を『ボランティア元年』とマスコミは言いましたが、実態は、私は区役所にいて、被災者からの訴えを職員が断り続けているのを横目で見る一方、全国から1日に新たに百人単位でボランティアが各区のセンターに来られるのに、やって頂く事が少ない状況でした。そこで区役所の担当職員・課長・部長の順をおって「区役所で断っている区民からの訴えを、断るのでなくボランティアセンターに回せるようにして下さい」と言ってもダメ。「区民は困っていますが、どうすれば?」と私から言ったら「区長(狭山で言う市長)に言って下さい」と言われ、区民でもない私がやむにやまれず、区長に直談判。涙ながらに話した結果、即決され、区役所へ寄せられる区民の訴えは、翌朝から、ボランティアが対応する事になりました。

 

【阪神大震災】の『避難所』での私の体験📷写真②
 毎日 夜11時まで、神戸市灘区役所の災害ボランティアセンターで手伝い、避難所で夜は被災者の方々のお話を伺いました。1月の、まして体育館の避難所は、とても寒く、そして先行きが全く見えない中で寝付けない被災した方々と、ストーブを囲んで。
 この避難所は、地域の⚽サッカーチームのコーチの方々を中心に立派に運営されていましたが、被災した方は口々に「区役所は役に立たない。『避難所に来なくていい』と言っている」と言われていました。これは、被災者の行き場の無い感情論と言うだけではありません。区役所では人によっては夜遅くまで仕事している職員もおりました。一方で前述のように、やっている事と、求められている事のミスマッチの間を、せめて気持ちで埋めようとは出来ていませんでした(夜時間のある時は、職員の本音も聴けました)。
 「非常時でさえ、連携出来ない行政とは何なんだろう?」と私は思い、埼玉に帰った後、都内や県内で講演の依頼があり、お話させて頂いていたら、市民の方々から「市議会議員に立候補して」と言われ、立候補して落選しても職場には戻れませんが、決意しました。

 

【阪神大震災】当時の私の📷写真③(募金活動)
 東京女子医大病院の看護助手だった私は、災害が起きた当初は、連続した休みを取りようも無く、たまたま高校時代から🏥赤十字のボランティアをしていたので、半月、狭山市内の各駅の出口で、夜勤が終った後などに、毎日のように募金に立って、市民の方々から募金をお預りしていると、「頑張ってね」など声をかけて頂き、(どこの馬の骨とも分からない私に)見ず知らずの方々が☕ホットコーヒーなどを買って下さって、「狭山市民ってこんなにあったかいんだ」と思い、被災地から帰って立候補を勧められ、悩みましたが決意しました。
 📷写真は、狭山市長(当時)が募金の応援に来た時。大人になって初めて政治家と話した瞬間でしたが、この時点では全く議員に立候補する事は、考えてもいませんでした。

 

【阪神大震災】当時の私の📷写真④(避難所の🏫神戸高校 体育館)
 たまたま🏥入院病棟で働いていた私は、避難所にいる障害を持った方や、高齢の方が気になり、声掛けし、病院や専門の所に行く事を場合によって勧めました。

 

【阪神大震災】当時の私の📷写真⑤(避難所)
 私は急きょ被災地に行かさせて頂いたので、寝袋は冬用を持っておらず、避難所に寝袋持参で行って、毛布を何枚も重ねても、どんなに疲れていても、寒くてこごえ、眠れませんでした。
 最近、防災訓練は、各地で行われていますが、避難所の体育館に、⛄寒い・☀暑い時期に泊まってみて下さい。高齢・病気・乳幼児・障害を持っている方には、耐えられません。(教室の避難所に泊まった時は、寒くなかったです)
 被災地に行って10日後、🍜カップラーメンを頂いて、あたたかく、おいしかった事。おいしかった事。あたたかい物がこんなに有り難いとは、それまで思ってもいませんでした。24年経った今でも忘れません。♨銭湯に初めて行く事が出来たのは、12日後くらいだったと思います。

 

『阪神大震災』から今日で24年。『つなぐ』📷⑥
 【つなぐ】とは、災害があった事を伝える事だけでなく、教訓をつなぐ。
 それは、災害時だけなく、【日常の困っている方の『災い』】を中心に。
 そうしていれば、災害時も、行政は機能し、市民とのギャップが少なくなると思います。(📷写真は、📺NHKより)

 

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【西日本豪雨災害募金】
 これまでに加え、新たに2640円をお預りし、ひろし事務所での募金総合計は、37万1311円に❗
 本当にありがとうございます❗❗