埼玉県の観光振興策で、秩父事件の勉強の為、秩父市役所の吉田支所(旧 吉田町)へ行って、支所長にお聞きし、秩父事件資料館で聞く。
秩父事件資料館。映画のロケで使ったセットがそのまま残っている。
秩父事件資料館は、龍勢会館の敷地の中に、映画『草の乱』の撮影の為に復元された井上伝蔵邸。映画で俳優が使った衣装などが現在展示されている。
アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」のファンが、“龍勢”の落下傘を作った。
秩父が舞台になったアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の放送前、龍勢祭の来場者数は、7万人だったが、放送後、11万人になり、アニメファンが明らかに来ている。ファンがお金を出し合って龍勢を上げ、アニメの絵を書いたパラシュートも自作した(展示されている)。龍勢会館には、関連グッズが36あるなど、経済効果になっている。会館の展示にもアニメファンが関わっている。
花火が歴史上この地域で盛んになった背景は昔、荒川を境に吉田町のほうは、江戸の直轄領で火薬使用の監視が緩く、対岸は(『のぼうの城』の)行田の忍藩領で花火が厳しく取り締まられていた。
江戸城の最初の築城の時、(その後、秩父事件の拠点の1つとなる)吉田町の椋(むく)神社周辺のけやきの木が切り出され、東京・神田明神の祭りは、椋神社の宮司がいないと祭りが出来ない程だった。
吉田町は養蚕が盛んで、秩父事件のあった明治17年当時、吉田町と秩父市は、同じ人口だった。(当時、秩父市は大宮郷という名前だった)
高利貸しは10円貸したものを1年経たない間に26円以上にする暴利。
不況で生糸の値段は半値に下がる中、明治15年に増税。
市民は役所に請願を出したが、役人・裁判官は高利貸し側に付き、請願はかなわず、蜂起。(高利貸しは裁判官に毎年賄賂をあげていた)
「恐れながら、天朝様に敵対するから、加勢しろ」。これが蜂起の呼びかけの言葉。当時いかに政府に逆らいづらかったか。
事件に関わった者の拷問は、背中に溶けた鉛をかけるなど、むごい。
また、太平洋戦争時の学校教育により、秩父事件に関わった者の墓は、石を投げ付けられ、欠けている。
秩父事件首謀者の1人、井上伝蔵は、秩父事件後、2年間地元でかくまわれた後、(当時結婚していて子供もいたが、単身)北海道へ。北海道で偽名で結婚。家族にも過去を話す事は無かったが、死ぬ間際の3日間かけて家族に話し、2日後に死去。
秩父事件前、秩父地域に鉄道整備の計画が持ち上がったが、養蚕が盛んな吉田町は「(汽車の煙で)桑が汚れる」と反対。秩父事件が起きた事により、事件の中心だった吉田町には鉄道を通さず、国からの補助金も来なくなった。もしも、吉田町に鉄道が敷かれていたら、いま地域は変わっていた。
以降、地元で秩父事件の事を語る事はタブーで、学校の授業でも詳しく教えられなかった。
今年(2014年)は、秩父事件から130周年。私が生まれた年から逆算すれば、ほんの82年前にあった事。私が生まれた時、90代の方は、その時代を生きて来た。そんな事を思いながら本を読んでいたら、本当に(昭和41年当時)90才の方の証言が載っていた。
2004年に映画になった『草の乱』のDVDを購入。荒川を渡るシーンには、地元のエキストラが1000人動員された。
秩父事件の書籍を4冊購入し、語り部の方を紹介して頂いた。秩父事件顕彰会もあるようだ。
夜は、会派会合。(自費で秩父泊)