【宮沢賢治 埼玉・小鹿野町来訪100周年】
宮沢賢治が100年前の9月4日に小鹿野町に来たことから、小鹿野町で【デクノボー祭り】が行われ、行ッテ来ました。
小鹿野町の方は、あったかくて、とても幸せな一時でした。
『宮沢賢治 駐車場』シンプルなのが好きです。(^^
地元の方とお話したら「今日だけでなく、何回も使うので」との事。効率的。
普段の生活とは別な世界にいざなうのに、仕掛けは大事。素晴らしい。
小鹿野の高校生が衣装を着て、案内。はいからさんの時代みたい。
(拡大)
県議 岩崎宏さん。
「きょう9月4日は、秩父に宮沢賢治が来た日であり、賢治の誕生日という奇遇。
今日まで桶川の県立文学館で、賢治の展示が行われている。長瀞にある県立自然の博物館では、賢治が訪ねた秩父のジオパークの展示がある。
『賢治ワールド』に1日、ひたって頂きたい」。
『小鹿野 賢治の会』は、20年前から活動している。
【宮沢賢治の弟のお孫さん】宮澤和樹さん
「祖父は賢治の事を面白い人で、人を喜ばせるのが好きだったと言っていた。
ストイックでとっつきにくいイメージがあるが。
賢治は、よく童話作家と紹介されるが、ホントの専門は、地質。だからここにも来ている。」
「宮沢賢治の有名な写真は、雨にも負けずのイメージにとらえられるが、ベートーベンのまね(右)。足が逆だが。(^^
賢治の後輩のカメラ屋に、外にカメラを持って来てもらって撮った。
『薪をしょった方』と、“宮”も一緒な二宮金次郎と間違えられる。(^^」
「『注文の多い料理店』『春と修羅』、生前出した2冊とも売れなかった。
伝えようとしたのは、仏教・法華経。自分の心を表現する為に『春と修羅』は、詩。
童話の『注文の多い…』には“私”が入っていない。」
『注文の多い料理“店”』のパクリ。(^^
「【雨ニモ負ケズ】
これを賢治は人に見せようとしたのではなく、こういう人になりましょうと言うのでもなく、自身に向けて書いたもので、日付は『11月3日』と書かれている(右上)。
花巻に戦時中、疎開(20年4月)して来た高村幸太郎さんが世に出そうとした。8月10日に空襲にあい、賢治の家や遺品が焼けたが、高村幸太郎さんが事前に「防空壕を作ったほうがいい」と言われていたので、持ち出す品を準備していて、賢治の作品が残った。」
「『行ッテ』は3度使われており、実践。
いくら知識を持っていても、行動しなければ何の意味も無い。自分がまず動く事。賢治はそうなりたかったけど、そうなっていない。
『行ッテ』と赤鉛筆で後から書かれている(写真左にうっすら)。
『北にケンカがあれば、つまらないからやめろ』は、前のページに『行ッテ』と書いてあり、活字にはなっていない。」
「賢治と弟 清六さん(5人兄弟で8才下。宮澤和樹さんの祖父)。身長同じく167cmくらい。
兵隊志願した清六さんの面会に仙台まで来た時の写真。」
「賢治が設計した譜面台。音楽が好きで、4重奏をやりたかった」。
(以上、宮澤和樹さんの話)
賢治の弟さんは、秩父・三峯神社に来た事があるとの事。
(お芝居)宮沢賢治の友人、保阪嘉内 役
「賢治が私に宛てた手紙(写真)が100年経ってもこんなに注目されているとは思わなかった。いろんな所で歌碑になっているのには驚いた。(^^
私への手紙73通のうち、23通に「しっかりやりましょう」と書いてあり、私に言っているのか。自分に言っているのか。(^^
保阪さんが作った歌を紹介します。あ、保阪は私でした」(^^
嘉内は賢治の3年後に亡くなる。短命な人が多かったのですね。賢治も嘉内も、星の名前になっています。
宮澤賢治が秩父・小鹿野で保阪嘉内に出した手紙。
差出欄に「チチブ オガノ ケンジ」と書いてある。「9月5日」の消印。
宮沢賢治が書いたこのハガキ1行1行の短歌が埼玉県内で歌碑に。
①②熊谷八木橋デパート前。
⑥寄居町障害者交流センター近く。⑦小鹿野町役場。
⑨小鹿野町三山 古鷹神社。
秩父地域で31の短歌を詠んでいます。
①熊谷八木橋デパート前。
②上の写真の裏にある歌碑。
⑦小鹿野町役場。
⑨小鹿野町三山 古鷹神社。
岩崎宏 県議に紹介頂き、賢治や小鹿野について、元新聞記者 山口清文さん(左)に教えて頂きました。
写真もキャプションもとても上手で、楽しい方です(ここに多数使用させて頂きました。感謝)。
賢治の歌碑。小鹿野の町長さん(写真)にお話を伺いました。
この写真は、町長の事を賢治だと子供に間違えられている所だそうです。(^^ (おがの化石館の前)
ようばけの歌碑にも、嘉内の親族が訪れています。
町長には、小鹿野町の『ダリア園』を薦められました(11月3日まで開園)。
宮沢賢治が地質調査で、石を採った所。(小鹿野町・皆本沢)
国会議事堂に使われている石など、100年前の宮沢賢治などに小鹿野高校の生徒・先生が扮して説明。
先生も熱演。
賢治が秩父で詠んだ歌をハガキに書き、ポストに出す所。
芸が細かい。(^^
宮沢賢治原作 紙芝居『狼森と笊森、盗森』。
「バカで威張っているのが、一番えらくない。」
宮沢賢治原作 紙芝居『どんぐりと山猫』。
Bookボランティアサークル『てっこはっこ』さんによる紙芝居。
手を振ってる方が、何の役でも面白い声担当。(^^
皆さんとってもユニークで、楽しかったです。
小鹿野町防災無線のアナウンサーがメンバー中、3人いるとの事。
アンコールの紙芝居まで、用意されていました。(^^
「てっこはっこ」とは、秩父や群馬の方言で「アリ地獄」の事だそうです。なぜこの名前に?(^^
紙芝居の中で、恐ろしい声は、壁の向こうから出すんですね。
子供からは見えませんが、壁の向こうに頭が見えてるでしょ。(^^
小鹿野の手すき和紙で、雨ニモ負ケズを書いてみようのコーナー。
はずがしがられちゃいましたけど、何とか写真の許可を頂きました。(^^
「熱中症ニモ負ケヌ 丈夫ナ体ヲ持チ」とは書いてありませんでしたが。(^^
昨日は販売してませんでした。110円。
小鹿野観光交流館の裏にある『雨ニモ負ケズ』碑。
『雨ニモ負ケズ』は、昭和6年11月3日に書かれた。
カナ書きは、当時公文書に使う書式で、えりを正して記した事が伺える。
賢治が20才(盛岡高等農林学校2年生)の時、小鹿野の本陣寿旅館に泊まった記録が確認された(建物を残し、現在、観光交流館に)。秩父地域に7日間いた。
宮沢賢治が泊まった小鹿野の本陣寿旅館(改装前)。
裏通りまで続く長い建物。
現在の観光交流館入口。
観光交流館(左)と小鹿野の街並み。
本陣寿旅館は、本陣と名にあるようにお代官様の役所だったので、『代官の間』には、いざという時逃げやすいよう『からくり扉』が今も残っている。
写真は、小鹿野歌舞伎の時の2枚。下の説明が笑える。
本陣寿旅館を観光交流館に改修する為、壁をはがしたら、昭和35年の広告が出て来た。
TVより映画の時代、映画館が小鹿野町に当時3館あった事。秩父で最初にエスカレーターが出来たお店の広告。
公共施設でのイベントにも関わらず、一升瓶を横に、飲みながら、演奏。
こういうフランクなの、いいと思います。
固過ぎて、(音楽などが)ホントに好きな人以外に興味を持たれないより。
落語家『セニョール栗原君』(小鹿野町公民館職員)。
『英賢』=英語で読む宮沢賢治講座を行った。『賢治落語』を世界初で行う。今日のお題は『どんぐりと山猫』。
7時を過ぎると、商店街は真っ暗(写真より暗いです)。
これが健全な生き物としての生活だと思いました。
宮沢賢治の銀河鉄道の時代をほうふつさせ、タイムスリップしたようです。
『秩父橋』『札所17番入口』バス停の車内アナウンスだけ【声優さんの声】で、驚きました。
秩父が舞台のアニメで出て来た所なんですね。
バスの運転手さんに伺ったら、アニメの巡礼バスも出ているとの事。
宮沢賢治来訪百年で記念の催し―NHK首都圏NEWS WEB
産経新聞埼玉版。
読売新聞埼玉版。
行列の出来ている 秩父の『わらじかつ丼』。
小鹿野町に本店がある。
パレオドキシアが発見された場所の看板を発見。
はんにゃの丘公園(埼玉県秩父市)
『ようばけ』。“よう(陽)”は、夕焼けがあたる。“ばけ”はガケ(崖)。という意味。
プロジェクション・マッピングを今年、ようばけでやったそうです。
ようばけプロジェクションマッピング開催のお知らせ 小鹿野両神観光協会
パレオドキシアなど1500万年前の秩父の海を再現
「行ッテ」に凝縮、宮沢賢治の生き方 埼玉・小鹿野来訪記念祭で親族講演 産経ニュース 9月5日
東京新聞。
宮沢賢治は、寄居でも岩石採取。
宮沢賢治・埼玉来訪100年 小鹿野で講演や詩の朗読、後輩への手紙展示 東京新聞 9月5日
宮沢賢治・埼玉来訪100年 「秩父に加え寄居でも岩石採集」 東京新聞 9月5日
埼玉新聞。