福島県富岡町など被災地を視察(日帰り)。
(現在、避難区域である為)福島県富岡町から避難されている方にご案内・説明を頂きました(奥様は関西に避難されているが、ご主人は富岡町で仕事をしているので、単身いわき市に避難されている)。
【4.7マイクロシーベルト】との今現在の電光掲示。見えますか?
福島原発からここは6.4km。富岡町の観光名所の桜並木は、ここからあと150mで、帰宅困難区域のゲートなので、途中から入れない。今は誰も住めない為、空き巣被害があり、この看板。
富岡町は、一部帰還困難区域があるが、去年3月に昼間だけ(9~3時)避難解除。
常磐自動車道の四倉パーキングエリアは、原発に放水する東京消防庁の待機場所でした。
【帰還困難区域】(富岡町)の1件1件の家の前には、鉄柵が設置されている。
富岡町内は水道が出ないので、井戸水を使って掃除したりしている。
震災時、建築途中だった家がそのままストップしているのが、いくつもある。
住宅敷地内や、道路以外の沿道も雑草で、木の枝も伸び放題で、うっそうとしている。バスの天井が枝にガンガン当たるなど、町自体に生活感が無いのが、伝わって来る(歩いている人は見受けられない)。商店もシャッターやガラスが割れたままの所が結構ある。元々暮らしていた方が久しぶりに帰って来たら、どんなお気持ちでしょうか。
津波で亡くなった人は富岡町では18人だが、震災関連死が今現在225人いる。
震災後、1年くらいは、牛や猪が街中を歩いていた。
富岡町の人口は、震災前1万5千人。4千人が県外に避難している(埼玉県は3番目に避難者が多く、572人)。
明日から、南相馬まで国道6号は四輪のみ、通り抜けられる事になった(東京新聞)。
津波で被災し、草が生い茂るJR富岡駅と、海岸沿いの住宅地だった所が、除染後の廃棄物の仮置き場に(写真奥の黒い袋)。
原発から20km圏内で駅が津波にやられたのはここだけなので、よくTVで報道されている。
津波で避難しようとした時の教訓は、「車を駐車場に入れる時は、バックで入れ、すぐに避難出来るようにしておく事」だった。
「全国の原発の中で、福島原発だけが、県の名前になっており、福島全部が悪いイメージになっている」と言われ、言われてみれば、他の原発は市町村の名前が付いているなと思いました。
楢葉町にある道の駅の放射線量測定器で、0,1マイクロシーベルト。震災前の自然値は、0,003マイクロシーベルト。年間20ミリシーベルト以下で、避難解除準備区域。東京から232km。
海岸線を走る広野町の常磐線は、♪「今は山中、今は浜~」の唱歌『汽車』になった場所。
津波でやられた中学校の体育館にあったピアノは、修理し、紅白歌合戦で櫻井翔君が弾いた事で知られ、今ピアノは地方を回っている。
震災前に来ていたサーファーがたくさん、復興の手伝いに来てくれた(いわき市薄磯地区)。
川の両岸には、海岸と同じように、【防潮堤】が建設中だった(写真)。
いわき市豊間地区。
「震災後、エレベーターの保守点検などの人達が、会社から『原発から80km圏内に入ってはいけない』となってしまって、来てもらえなかった」。
いわき市久ノ浜地区。
津波後、油に引火し、街が火災に。
来年春には、常磐道も全線開通、楢葉町は帰還へ。
今日、行きに福島駅で下りたら、甲冑を着た『山形おきたま~ ❝愛❞の武将隊』の皆さんがいて、ポーズを取って頂きました。
その場を去る時、伊達政宗さんから「行ってらっしゃいませ!」と言われ、「恐縮至極に存じます」という感じでした。(^^)
『のぼうの城』の忍城にも、おもてなし甲冑隊がいます。
私の尊敬する先輩が、米沢 出身で、財政改革に取り組んだ上杉鷹山公の事を是非勉強させて下さいとお願いし、一昨年、置賜にもお邪魔した事もあり、今回FBに投稿しました。
私のHPに、米沢に伺い、上杉鷹山公について学ばせて頂いた時の事を詳しく書きましたので、ぜひご一読下さい。
「借金返済の意識は、上杉鷹山公の時代まで藩に無かった」
「税収(石高)が以前の120万石から、30万石に落ち込んでも、初代藩主・景勝の意向に縛られ、120万石時代の家臣6,000人の人数はそのままで、家臣も上杉家へ仕える事を誇りとして離れず、この為他の藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった」
「藩主自らが畑を耕す事は前例が無かったが、農民は感激し、武士達も農業の大切さを悟り、荒れた田の開墾に従事した」など紹介。
(それまで収入3万両なのに、支出7万両の時代だった)上杉鷹山公の努力は、今の時代でも勉強になり、まだまだ勉強したいと思っています。
鷹山公の【なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり】。この言葉、途中までは有名な言葉ですが、『成らぬは人のなさぬ成りけり』は、「結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ」との意味だそうです。その精神で、今後も頑張ります。
鷹山公が引退する時に、次の藩主に心得として伝えた言葉は、
『一、国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。』
『 一、人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです。』
『 一、国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではありません。』
鷹山公の事で私が以前見た番組は、NHK歴史ヒストリアです。
鷹山公によって切腹を命じられた人の子(藁科立遠)が、自ら改革案を鷹山公に提案して来たところがすごいですね。